結局彼女の贈り物が、祐一に届くことはなかった。
 今でも、あの八年前の駅前のベンチで、壊れたゆきうさぎと、小さな女の子が泣いている。


「ゴールテープの向こう側」


 祐一が初めて応援に来てくれると言った。
 その前にくっついていた「暇だから」の一言がかなり余計だったが、名雪にはそれだけで充分だった。
 毎日口をへの字にして今日まで頑張ってきた。その成果を祐一に見てもらえるのだ。これ以上の舞台はなかった。ただの地域陸上記録会が、その瞬間から彼女にとってインターハイ決勝以上の大舞台となった。

「祐一っ。本っ当に来てくれるんだよね? 本当に本当だよね?」
 何度も何度も確認しすぎてついに怒られた。これまでいくら誘っても「面倒くさい」の一言で全然とりあってくれなかったのに。一体どういう風の吹き回しだか知らないが、あまりしつこくすると気まぐれな祐一の気がまた変わってしまうかもしれない。名雪は不安に思いつつも追求をやめた。

「名雪さん名雪さん! 祐一君、今回は応援に来てくれるんだってね!」

 部屋に戻ろうと階段を上りかけていた名雪のところに、早速情報を聞きつけたらしいあゆが、大喜びでやってきた。
 なにやら興奮冷めやらぬ様子で、両手をぶんぶん振りながら、あゆはまくしたてる。
「大体、今までがおかしかったんだよ。ボクや秋子さんはもちろん、香里さんや北川君、それにたいやき屋のおじさんまで集まって、いつもみんなで応援しているのに、肝心の祐一君だけ来ないなんて変だし、不義理というものだよ! まあ、今回は来てくれるんだから許してあげるけどね」
 あゆがこんなに偉そうなのには理由がある。なにを隠そう、あゆは、総勢10名を数える『水瀬名雪私設応援団』の団長なのである。
 あゆは、知り合いという知り合いに声をかけまくって……というか、あんまり知らない人にまで声をかけまくって……もっと言えば、勢い余って全然知らない人や関係ない人にさえ声をかけまくって、応援団を現在の規模にしたのである。そんなあゆにとって、祐一の不在はかねてから大きな不満の種だったのだ。

「明日は今までの分も祐一君に応援させるから、名雪さん頑張ってね! もちろんボクたちも一生懸命応援するから!」
「うん、ありがとうあゆちゃん。……祐一にいいとこみせなきゃね。……うん。がんばるよっ」
 ぐっ。と、胸の前で二つこぶしをつくって、ふぁいとをみせる名雪である。しかし、どうも顔色が冴えない。トーンも低めだ。
 階段を上っていくそんな名雪の背中を、なんとなく不安げにあゆは見送った。

 名雪の種目は短距離だ。さらに言うならその短距離の中でも最短最速の100Mである。ほかの種目でもミスはもちろん許されるものではないが、特に100Mでのそれは、敗北に直結することがままある。小さな大会なので、そうそう不覚をとるつもりはないが、近くの有力校も参加するため、組みし易い相手ばかりではないし、なにより短距離では何がおこるかわからない。さらに加えて、今回名雪は普通の精神状態ではない。もし、祐一の目の前で惨敗してしまったらどうしよう。もう二度と祐一にとっておきの姿を見てもらえる機会はないかもしれないのに。
 名雪は自分が一番頑張っている姿を、祐一にどうしても見てもらいたかった。
 祐一は、悲しい断絶の想い出を乗り越え、今、あゆとの空白の七年を必死で埋めようとしている。……今さら自分がどうこうしようなんて思ってはいない。でも、祐一に一度だけでいいから、自分のことを見てほしかった。そうすれば、行き場をなくして凍えている、あの日伝えられなかった気持ちに、何か答えが出せると思ったから。
 だからどうしても勝って、しかも納得のいく好成績を収めたかった。
 祐一の前で。

 その夜名雪は夢の中、数十回にわたって繰り返し繰り返し最下位になった。ある時は転び、ある時は出遅れ、ある時は靴紐がほどけ……眠れぬ夜が明ける。

 朝。名雪はなんと水瀬家で一番早く起きた。まあ、起きたというより最後の悪夢にたたき起こされただけなのだが。
 名雪に起こされるという信じられない事態に祐一は愕然とした。彼の驚きの表明の中には、例によってかなり失礼なものも含まれていたが、睡眠不足と緊張で、名雪はそれどころではなかった。万事いつも以上のぼんやりさ加減で受け応えする名雪。肉体的にも精神的にもどこかふらふらしたまま身支度をした名雪は、かなり早めに家を出た。家族一同の心配そうな視線を背に。

「名雪さんっ! ちょっと待って!」
 呼び止める声に振り返ると、あゆがばたばたと追いかけてくるところだった。

「? あゆちゃん、どうかした?」
「……うん。いや、なんでもないんだけどね……」
 どうみてもおかしい名雪の様子に、我慢できずにとにかく追いかけては来たものの、なんと言葉をかけるかについては考えていなかったらしい。

「……あのね。これっ!」
 しばらくの沈黙ののち、あゆは、小さな人形を差し出した。

「あゆちゃん……、これは……」

 そう、それはあの天使の人形だった。
 それはかつて、自分が直してあげたものだ。
 それに秘められた、まるでおとぎばなしのような物語も、あゆ自身から聞いている。
「これは……借りられないよ」
 名雪は困ったような笑顔を浮かべて言った。
 それは祐一とあゆの、約束と絆の象徴だ。自分にはあまりに重くて……悲しくて、とても受け取れるものではない。

「違う。違うんだよ名雪さん。よく見て。……ほら、ボクのはこっち」
 そう言うとあゆは、ポケットからもう一つの天使の人形を取り出した。
 よく見ると、あゆが最初に差し出したほうの天使の人形は、ハチマキを締めていた。ハチマキには小さな字で「ふぁいとっ」の文字。これはあゆの字だ。

「……ね? これは別の天使なんだ。ボクと名雪さんの、新しい約束の天使。名雪さん、ボクと約束して。今日の大会、きっと頑張るって。……この天使はね、名雪さんが全力で頑張る限り、必ず力を貸してくれるんだ。だから大丈夫。だって名雪さんは今日まで毎日本当に一生懸命頑張ってきたんだもの。悪い結果なんて出るわけないよっ。そんな理不尽、この天使が許さない!」

「……ありがとう。あゆちゃん……がんばる。わたしがんばるよ……」
 名雪には、もうそれだけしか言えなかった。あとはなんだかとにかく泣けてしまって、あふれてくる涙を抑えるのに必死だった。
 二人はしばらく抱き合ってしずかに泣いていた。


「……なんだ、出る幕なしか」
「……そうみたいですね。じゃあ、二人に見つからないうちに帰りましょうか」
 その様子を物陰から見ていた秋子と祐一は、なんだかうれしそうにその場を後にした。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 晴天に恵まれた、近所のスポーツ施設の運動場。
 大会は万事滞りなく進行していく。
 そして、その時はやってきた。

『まもなく、女子100Mを開始します。第一組に出場する選手のみなさんは係員の指示に従い、所定の位置におつき下さい』

 アナウンスに顔を上げる。名雪は何度も結びなおした靴紐を、最後にもう一度きゅっと締めた。

 体を軽くほぐしながらスタートラインに並ぶ。
 名雪の名がコールされる。母校の横断幕のあたりから後輩たちや、応援に来てくれたみんなの声援が聞こえる。それらに軽く手を挙げて応えつつ、観客席を見渡す。

 いた。

『本当に来てくれてる!』
 躍り上がりたいような気持ちだったが、じっとこらえた。祐一の姿を視界のすみにちらりと写して、心に焼き付ける。そして、その横で跳ねているあゆの笑顔。胸に忍ばせたあゆとの約束の人形にかるく手を当て、目を閉じる。今日はこの二つが無敵のお守りだ。負けようはずがない。そう、信じた。
 ふっと、呼吸が楽になった。そこではじめて自分の体にまだ余計な力が入っていたことに気づく。改めて体をほぐす。

 ブロックに足をかけ、名雪は目を閉じる。精神統一。まわりからすうっと音がひいていく。深呼吸を大きくゆっくりと三度繰り返しながら、スタートの姿勢を整える。

「用意!」

 ぎゅっ。
 まるで全身が弓になったかのように、彼女を構成するありとあらゆる曲線がぎりぎりと引き絞られる。

『ターン!』

 乾いた号令とともに、六本の矢が放たれた。名雪は二番手。一瞬出遅れてしまったらしい。短距離では、スピードそれ自体ももちろん重要だが、いかに早く自分のトップスピードにもっていけるかがより重要である。タイミングが遅れれば、どんな名選手でも惨敗を喫する。どちらかといえば先行逃げ切り型の展開を得意とする名雪にとって、この出遅れはかなり痛かった。
 でも、どうしても今日だけは負けるわけにはいかない。今日は祐一が帰ってきて二年目、いや、あの駅前から八年目にしてようやく訪れた晴れ舞台なのだから。少し唇が歪む。

 六本の矢はさらにぐんぐん加速していく。名雪はいまだ二番手。でも半歩詰めた。一番手の頭が少し揺れる。後ろを気にしたか。足音は聞こえているはずだ。名雪は追い詰めにかかる。
 一歩……二歩……そして……ついに先頭をとらえた!
 なおも名雪は休まない。更にさらに前を目指す。ぐんぐんと位置を上げていく。もう、名雪の前には誰もいない。歓声を耳鳴りのように漠然と意識しながら、名雪は地面を全力で蹴りつづける。

 息が苦しい。
 ゴールは……あと少し。
 ……あゆちゃん…………ゆういち……祐一っ!

 思考は千々に乱れる。しかし名雪の足は、体は、走ることだけを目的に躍動し続ける。

 前へ、もっと前へ――

 もう、あと、すこし――



 そして名雪は、思いっきり胸をはって、ゴールテープを切った。


「ぜえっはっ、はぁっはっ……」
 久しぶりの酸素にあえぎながら、激しい動悸と荒い呼吸を必死で静める。
 やれるだけやった。出遅れはしたが、その後の追い込みではかなり頑張れたと思う。
 あとは、結果だ。
 そして名雪は、ゆっくりと視線を上げた。

 電光掲示板には、約4ヶ月ぶりの自己記録更新を意味する表示が記されていた。
 名雪はそっと、胸の人形に指を当てた。

 フィールドから引き上げてくると、待ちかねたように部の仲間が飛びついてきた。
「名雪!! 自己新おめでとう! やったじゃん! 最初出遅れた時はこりゃもうだめだと思ったけど、あそこから逆転勝利をかますなんて、なんか今日はいつもの名雪じゃないみたいだったよ! 出遅れてこれなら、まだもう一段階伸ばせるね。ちょっとうらやましいよ」

「うん。ありがとう! でも、今はちょっとごめんね。行かなきゃいけないところがあるんだよ」
 そう。みんなのところへ。いや、あの二人のところへ。


「おっ! 来た来た! ……水瀬やったな! 凄い追い込みだった。鳥肌立っちまったよ」
「名雪やるじゃない! 記録更新おめでとう」
 親しい顔から口々に注がれるそうした祝福の言葉にお礼を言いながら、名雪はあの二人の顔を探す。

 そして。
「あゆちゃん、ゆういちっ! わたし頑張れたよ! 見ててくれた?」
「おう。もちろん見てたぞ。すごいなお前。俺は今日までお前のことを見くびっていたよ。女子陸上部部長の肩書きは伊達じゃなかったんだな」
「……祐一ひどいよ。一体今までどういう目でわたしのこと見てたの?」
「いや、てっきり部長ってのは面倒だからまわりから押し付けられたんだと思ってた」
「えぇ〜〜!?」
「まあそれも過去のことだ。気にするな」
「気にするよ〜〜〜〜!?」
「名雪さん、おめでとう! すっごくかっこよかったよっ」
「ありがとう、あゆちゃん。……あのね、ちょっといいかな?」
「え?」
 名雪はにっこり笑うと、あゆの手をとって歩きだした。

「ここでいいかな……」
 そこは倉庫の裏だった。名雪は周囲を確認すると、つないでいた手を離して言った。
「じゃあ、改めて。本当にありがとう。あゆちゃん! あの天使さんがいなかったら、わたしきっとこんな結果は出せなかったよ」
 あゆはやや慌てて首を振る。
「ううん。今日の結果は、人形の力なんかじゃないよ。名雪さんが毎日積み重ねた努力の賜物だよ」
「……そうだね。確かにこの天使の人形が直接何かしてくれたわけじゃないね」
 そう言うと名雪は、人形を取り出しながら、ゆっくりとあゆの手をとって、言った。
「でもね。この天使の人形をくれたあゆちゃんの気持ちは、間違いなくわたしに力をくれたよ。……だからね。これはわたしからの精一杯のお礼」
 あゆの手に、天使の人形を握らせる。
「あゆちゃんと……それから祐一とともに、いつも幸せがありますように。どうかそのための努力を怠らないで。これは、いつも誰よりも二人のそばにいるわたしと、あゆちゃんの、新しい約束の天使。頑張っているあゆちゃんを、この天使さんは必ず助けてくれるよ」

「な、名雪さん……でもこれは名雪さんに……」
「ううん。恋敵にいつまでも心配されていたんじゃあ、わたしの沽券にかかわるもの」
 名雪はいたずらっぽく笑ってそう言った。
「祐一を不幸にしても、あゆちゃんが不幸になっても、許さないよ。絶対」
「……うん。ありがとう名雪さん……。天使さんが二人もついてたら、絶対大丈夫だね」
「……そんなこと言って油断してると、祐一かっさらっちゃうからね」
「うぐぅ。それはだめだよ〜〜〜〜!」
 びっくりしてあわてるあゆ。
 そんなあゆの様子をおかしそうに見ている名雪。

 そうして二人は、大きな声で笑いあった。


 戻ると、祐一は待ちかねたようにたずねた。気になって仕方がないらしい。
「おい、二人でこそこそ何を話していたんだ?」
「何? 祐一君、気になる?」
「内緒だよ。女の子同士の話」
「そうそう。祐一君には関係ないの!」
「なにぃ! 仲間はずれは許さん!」
「うぐぅ、何するんだよ〜」
 あゆのほっぺをむにっとつまむ祐一。
 ぽかぽか反撃するあゆ。
 うん、いつもの二人だ。


「……さあっ。わたしも幸せになってみようかな」

 もうどこにも、泣いている女の子はいない。


 まだまだ競技の続くグラウンドから、スタートをつげるピストルの音が聞こえる。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 読んでくださってありがとうございました。文月そらです。
 ……ということで、名雪のおはなしをお届けしました。

 名雪のおはなしでありながら、舞台はあゆシナリオ後というあたりがアレですが、そこは何卒ご容赦ください……。あゆシナリオの名雪、好きなんです(w)こうしてどうしても脇へ脇へと入っていく自分の業の深さが好きです(えー)
 こんぺ後第一作ということで、本編設定に頼り過ぎないようにしようとか、あんまり一文が長くなり過ぎないようにしようとか、指摘を受けた点をいろいろ気にしてみました。でも結局、削れない文というのはあるもので、長い文はやっぱり長くなってしまっています。この辺は仕方がないのかもしれません……。
 このお話は、名雪がかっこよく走っている姿が書きたいというところからはじまりました。それでそこから書き始めたんですが、その結果、「あれ? この話どう始まってどう終わるんだ?」という、大変間抜けな迷路に迷い込んでしまいました(w
 名雪やあゆが喋りだしてくれるまでは苦労しました。もしかするといままでで一番苦労したかもしれません。

 さて、御感想のほうは如何でしたでしょうか?
 一言でもよいので、是非お寄せください。お待ちしております。

 では、ご縁がありましたら是非また次のおはなしで。

おたより、おまちしてます。

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