「櫻吹雪が風に舞う」
目を開くと、温かな光の中。
最初に目に入ったのは、すぐ傍らの、先輩の笑顔。
「あ。桜、目が醒めたか?」
――ああ、せんぱいだ。
やさしくて、やさしすぎて、そのせいでかえって周りを困らせてしまう先輩。
「あんまりぐっすり眠っていたから、起こしそびれちゃって」
あのあったかい笑顔が、こんなに近くにある。
ぐるりとまわりを見渡す。……そうだ。今日はみんなでお花見に来たんだった。
――姉さんがいる。
ようやく起きたの、ねぼすけ。なんて言いながら、お茶を淹れてくれている。
ライダーがいる。
いつもの優しい無表情で、お皿に料理をよそってくれている。
そしてみんなで、先輩の作ってくれたおいしいお弁当を食べながら、他愛も無い話に興じる。
それは、夢にすらみたことのない幸福だった。幸福過ぎて、現実だなんて信じられない位――
――1――
強い風が吹いた。
吹き散らされた櫻の花が吹雪となって風に舞い散る。
桜はそんな、風に翻弄される桃色の粉雪をぼんやりと眺めている。
「ねえ、桜」
わたしはようやく、まるで彫像のような妹に声をかけることに成功した。
――どうも、こういう状態の桜に話しかけるのは苦手だ。ありえないことだけれど、何かすると消えてしまうのではないか。そんな根拠の無い畏れが、わたしの心にとりついて離れない。
そんな儚さを、今の桜は身に纏っている。
「花見? 花見って、あの花見か?」
「はい。このお屋敷でも出来ますけど、あるのは梅の木だけですから。天気のいい日に、広い野原で先輩とお花見がしたいです」
「――よし。じゃあ約束だ。桜の体が治って、このゴタゴタが終わったら二人で行こう」
そんな、あいつとのちっぽけな約束のことを話す桜は、とても幸福そうに見えた。
「だから姉さん。わたしは櫻を見に行きます」
花見の季節が始まると、桜は今年も当然のようにそう言った。
正直、痛々しくて見ていられない。あいつは、衛宮士郎はもう帰ってこない。花見をしに帰ってくることなんて、もうないのだ。……なのに。
桜は待ちつづけている。いつか衛宮士郎が帰ってきて、共に春を迎えることを。
やがて櫻の園が黄金色に染まり始める。
「ねえ、桜……そろそろ日も沈むわよ」
わたしは恐る恐る声をかける。それで、ようやく桜がこっちを向いてくれた。
「――はい、姉さん。じゃあ帰りましょうか」
その笑顔すら、今はただ辛い。
気持ちのゆらぎが表情に表れないよう、精一杯無表情を装って、わたしは桜の手を取った。
「そうね」
なるべく、そっけなく。うまく言えたと思う。
次第に濃紺に沈んでいく街並みの中、桜と並んで家路を辿る。
「ねえ」
「なあに、姉さん」
まじまじと、振り向いた妹の笑顔を見つめてしまう。普段の桜は本当に自然だ。まるであの花見での様子が夢か何かに思えてくるほどに。……しかし、それは逆ではないのか。あの、今にも消えてしまいそうな桜が本当で、今のしっかりして見える桜こそが虚像なのではないのか。
――あの日を境に、桜は積年の呪縛から完全に解き放たれた。だが引き換えに、士郎を失い、イリヤを失い、更に贖いようもない巨大な罪を背負った。
桜は、優しくなった。
元々優しい子だった。遠くからだったけど、ずっと見ていたのだ、そんなことはよく知っている。
でも、この優しさは桜のものじゃない。桜は単に、もう誰にも何にも言えなくなってしまっただけなのだ。これは優しさなんかじゃない。ただ無限の譲歩がそこにあるだけだ。
あの日から桜は、あんなに打ち込んでいた弓をとろうとしない。幼い頃からつづけていた華道も、今はやめてしまっているらしい。もう桜は何もしていない。ただそこで微笑んでいるだけだ。
櫻の丘から衛宮邸までほんの徒歩20分。しかし二人黙って辿る家路はやけに長く感じた。
――ふと見上げる。空は、あんなにも高く、遠い。
――2――
今年の花見通いが三日を数えたある日。わたしはたまりかねて桜に懇願した。
「ねえ、桜。あなた過去にとらわれすぎよ。もう少しだけでもいいから前向きになってくれなくちゃ、一緒にいるこっちの息がつまっちゃうわ」
それは多分、わたしの悲鳴だった。……なのに。
「ダメよ、姉さん」
――桜は。
「過去は変えられない。罪は消えない。だからそれをわたしは一生背負いつづけていくしかないの」
今更無かったことになんてできないんだから当然じゃない。おかしな姉さん。と、笑ってみせた。
そして、決して言ってはならない一言を、言い放った。
「それに姉さんには、こんなわたしに付き合う必要も義理も、ないのよ」
――――頭にきた。
そりゃ桜のやったことは許されることじゃないだろう。その罪はあまりにも大きすぎて償いようがない。また同時に、それはあまりにも非常識すぎるため、いまの社会では裁いてすらくれない。
それなのにこの世界は、――一生、桜を責め苛むというのか。
――頭にきた。
理屈はわかる。でもわたしには許せない。道理も道徳も知ったことじゃない。わたしはどうしても、この罪深きバカ妹に幸せになってもらいたいのだ。もし、それが更なる罪だというならば、わたしを罰すればいい。
これはただ、わたしの我侭なのだから。
遠坂邸に帰り着くと、ヒートアップした頭を冷やすべく、なるべく丁寧に紅茶の準備をする。温めたカップに、とっておきの茶葉で淹れた紅茶を、ゆっくりゆっくりと注ぐ。テーブルにつき、カップを口に運ぶ。一口だけ口に含み、香りを楽しんでからゆっくりと嚥下する。
「ふう。さてと……」
頭を切り替える。……どうすればいい。最大の敵は他でもない、桜を決して許してくれない桜自身だ。なにか、せめて少しだけでもいいから、前向きな気持ちになってくれる方法はないものか。
「――特効薬は士郎が帰ってくる、ってことだと思うんだけど」
それはさすがに望むべくもない。ならばせめて一目でも士郎に会わせてあげる方法はないか……。しかし、すでにいなくなった人に逢う。そんなことは常識では考えられない。
「わたし、できないことはやらない主義だったんだけどな――――ん?」
……あれ? 今、何かが思考をかすめた。
すでにいなくなった人に逢う。そんなことは常識では考えられない。
「あああっ!!」
なんて、バカ。――できる。わたしにはできる。
わたしは魔術師だ。世のコトワリに抗う者だ。今魔術を使わずに、一体何時使うというのだ。
しかも。
必要な魔術はすでにこの手にあるというのに。
「……まあ、ちょっと出費が痛いけどね」
それでもわたしは、覚悟を決めた。
――3――
あれから一週間。さんざん西奔東走した成果が目の前にある。
それは、一本のナイフ。いや、ナイフというにもちょっと小さすぎる。むしろこれはカッターと呼称すべき範疇に入ってしまいそうな大きさだ。お世辞にも逸品とはいいがたい代物である。
かつて一度完成させたとはいえ、仕上げたのは士郎だ。あの時の経験から、基本理念については理解していたが、理論と実践には常に隔たりがある。理論をそのまま形にできる士郎ならともかく、実際に手を動かすしかないわたしにとり、完成までの道のりは想像以上に険しかった。
事前に古い書籍を中心にいろいろ売り払って、かなり資金を用意したはずだったのだが、失敗に失敗を重ね、結局当初の目論見よりもふた回りほどちいさなものしか作り出すことができなかった。
「……仕方ないでしょ。今の資金ではこれが限界だったんだから」
誰に言うともなく、つぶやいてみる。これは恐らく、自分に対する言い訳。
「でも、効果の程は折り紙つきなんだから」
――宝石剣ゼルレッチ。願わくばこのナイフが、未来を切り拓く刃とならんことを。
時計の針はじき午前二時を指す。わたしにとって最も波長のいい時間帯。場所は、地下室。
「そういえば、あいつを召喚したのも、この時間、この場所だったわね」
ちょっと不思議な気分だ。形はだいぶ違うが、わたしはまた、士郎を喚ぼうとしているのだから。
別にここまで状況を整えてやらなくても、このナイフの力があれば失敗の心配なんて皆無なんだけど、そこはそれ、やはり初回は万全を期したい。
「――――Anfang(セット)」
魔術回路に火を入れ、右手のナイフに魔力を通す。
「Es lt frei,(解放)verbinden(接続)!」
唱えて、目の前の何も無い空間にナイフを突き立てた。ざくり、でもなく、ぶすり、でもない。ずるりと何も無いはずの空間に吸い込まれた切っ先は、まるで折れたかのように見えなくなった。
「……よし」
さすがに小なりとはいえ、宝石剣ゼルレッチ。期待通りの働きを見せてくれた。
ここまではいい。問題はここからだ。残念ながら今のわたしには、宝石剣なしでこの次元の穴を維持するすべがない。ナイフを抜けば、簡単にこの穴は消滅してしまうだろう。……だが、つないでしまえばなんとかなる。大空洞の時の経験から言って、恐らく、今つながっているのはどこか別の並行世界の同じ場所、つまりこの部屋であるはずだ。
わたしはそこでテーブルの上に用意していた宝石の小鳥を手にとり、魔力を込める。
「さあ、『わたし』を呼んで来て……」
と、その時。今開けた穴から、光り輝く切っ先が、ぬっ、とわたしの目の前に突き出してきた。そいつはぐりぐりと穴を拡げ、そこからやけに見覚えのある宝石の小鳥が飛び出してきた。
小鳥はわたしの頭上をぱたぱたと旋回しながら、挨拶してきた。
『はじめまして、遠坂凛。わかっているとは思うけど、わたしも遠坂凛よ』
「はじめまして。……遠坂凛はそっちの世界でも宝石剣の神秘にせまっていたなんてね。驚いたわ」
宝石の小鳥はパタパタとゆるやかな螺旋を描きながら下降し、目の前の机の上にとまった。
『驚いたのはこっちよ。試作した宝石剣を試そうとしたら、先に穴があいちゃうんだもの』
ぎょっとしたわ。と、呟く口調には苦笑の響きがこもる。
「ねえ、いきなりなんだけど、ちょっと話をきかせてほしいの」
今のわたしには余裕がない。早速、用件を切り出すことにする。
「まずは、状況から確認させてほしいんだけど、この様子だとそちらの世界も聖杯戦争を経験したのは間違いないみたいね。しかも宝石剣ゼルレッチを使用したのも共通しているみたい」
『ええ、そうよ。……大師父の宝石剣の再現なんて、そうそう思いつくことじゃないと思っていたんだけど……自分のオリジナリティを否定された気分だわ』
「それはわたしも同感だけど……まあ考えてみれば『並行世界』っていうくらいだから、あまり極端に違う展開にはならないのかもね……そうかぁ。できればまだ聖杯戦争が起こっていないか、全然別の経過を辿った、要するに士郎が元気な世界につながってくれるのを期待していたんだけど、最初からそう上手くはいかないみたいね……」
ため息をついたわたしは、礼を言ってこの話を切り上げようと思ったのだが。
『え? 士郎ならぴんぴんしてるけど?』
……とんでもない言葉を口にしてくれたのだった。
「え、ええっ!? ど、どういうことよ!」
『ああ、そうそう。もちろん桜も生還しているし、ライダーだって健在よ』
「ラ、ラ、ララ、ライダー!?」
二の句がつげない、という言葉があるが、まさにそういう状態だった。
「ちょっとまってよ! 聖杯戦争は終わったんでしょ? なんでライダーがまだいるのよ!」
『ま、桜の魔力は底なしだからね……。そんなわけでこっちは賑やかにやってるんだけど……どうやらそっちは、違うみたいね……』
小鳥から伝えられる、向こうの『わたし』の声に影が差した。
『実際、話がうますぎるとは思っていたのよ。あの絶望的な状況から、わたしも桜も士郎も、ライダーまで戻ってこられるなんて、いくらなんでも、ちょっとね。……イリヤは、残念だったけれど』
そこまで言って、小鳥はしばらく言葉を捜すように沈黙してから、こう投げかけてきた。
『つまり、そっちに士郎はいないのね?』
「……ええ。そういう結末になった桜がどうなるか、想像してみて」
『…………暴れてる? それとも、閉じこもっちゃった?』
「どっちでもないわ。むしろそのどっちかなら、まだ良かったんだけど……。桜は自分の罪を本当に自覚しているから、安易な自暴自棄に走ることを厳しく禁じている。だから普段は一見、立ち直ったようにすらみえる。……でもね、信じられる? あの子、本気で士郎の帰りを待っているのよ」
『……それって、まさか』
「いえ、桜は正気よ。士郎がもう帰ってこないことを理解しているわ。……理屈ではね。それでも、待っているの。……多分、そうでないと、罪の意識に潰されて自分が維持できなくなるんだと思う。それがあの子が唯一自分に許した『逃げ』なのよ」
『……』
「こうして次元の壁を越えたのは、それが理由。お願い。力を貸して」
小鳥はしばらく、身じろぎもしなかった。静かで重い沈黙がたちこめる。
どのくらいの間それが続いたのだろう。やがて小鳥は、閉ざされていた口を開いた。
『――頭にきた。こっちの桜もバカだけど、そっちの桜は最悪ね。……いいわ。何でも言って』
「……ありがとう、本当に」
『ううん、バカ桜のためだもの、気にしないで。……で、あなたには何か考えがあるのね?』
「ええ。上手くいくかどうかはわからない。けど、このまま桜を黙って見ていることなんかできない。できることをやるだけよ」
『ええ。わたしも同じ気持ち。……それで、具体的にはどうすればいい?』
「夢よ」
『え?』
「桜に夢をみせたいの。まぎれもなく現実だけど、現実じゃない、そんな夢を」
――4――
「ねえ、桜。今日はお花見にいかないの? もう十二時になるわよ?」
わたしはヤキモキしていた。あちらの『わたし』との約束の時間は昼の一時丁度だ。移動に要する時間は20分だが、なるべく早めに準備して万全を期したい。
「……? 姉さん、わたしが花見に行くの嫌がってなかった?」
不審げな視線をよこす桜に内心狼狽したが、ここは自然に振舞わないとまずい。
「まあ、ちょっとした心境の変化ってやつよ」
「…………?」
桜の不審はぬぐえないようだ。……仕方ない。この際、強引に行こう。
「いいから! さあ、いくわよ!」
座っていた桜の手を強引に引いて立たせる。
「ちょ……ちょっと姉さん?」
「ああ。お弁当のことなら心配ないわ。ちゃんとここに用意しといたから。……ほら。どうせわたしが反対したって行くんでしょ? あそこで一日ぼーっとしてるあんたをほっとくことなんてできないし、止めてもきかないんならついていくしかないじゃない。……納得した?」
出任せで喋ったが、割と説得力のある言葉がでてきてくれた。
「……うん、わかった」
桜の不思議そうな表情を完全に拭い去ることはできなかったが、どうにか出発に同意してくれた。
「よし、じゃあいくわよ」
一旦床に下ろしていたボストンバッグを再び肩にかけなおすと、そう桜を促した。
一面の櫻吹雪。花は、今や満開だ。しかし、わたしにとってこの景色は冬の景色に等しい。わたしの妹は、この櫻色の雪に氷づけにされて、一歩も動けなくなってしまっているのだ。
『まあ、みてなさい』
唇を小さくかみ締め、決意を刻む。
『こんな冬、今日で終わりにしてやるから』
桜はここに来ると、一際大きな櫻の木の幹に背中を預け、一日ぼんやりと過ごすのが常である。桜が自分の世界に没入し、反応がなくなってしまう前に、手早く計画を進めねばならない。
「桜、わたし喉渇いちゃった。そこの水筒にお茶入れてきたから、注いでくれない?」
「……うん」
桜はバッグから水筒と紙コップを出して、こぽこぽと注ぎ、わたしにそれを差し出した。
「ありがと。じゃあ、桜も」
と、桜の分の紙コップを取り出し、注いで渡す。
「ありがとう」
桜は薄く微笑んで受け取ると、まるで自動人形のようにそのままそれに口をつけた。
こく、こく、小さく喉を鳴らす桜の様子を、じっと見つめる。
三口ほど飲んだ桜は、そこで紙コップを下に敷いてあるレジャーシートに置く。
「……あれ?」
かくん。不意に、桜の姿勢から力が失われる。
目を二、三度しばたかせ、額に手をやった桜は、不思議そうに呟いた。
「おかしいな。別にさっきまで眠くなんて……」
言い終わるか、終わらないかのうちに、くたり、くたりと左右に二度ほど大きく揺れて、桜は睡魔に引きずり込まれていた。穏やかな寝息を立てはじめた桜をみて、わたしはほっと一息つく。
「これで第一段階はクリアっと」
時計を確認する。……一時まで、あと3分か。
「うっわ。ギリギリってところね」
そのまま、サポートに使うとっておきのルビーを左手に握り締め、意識を集中する。
やること自体はとても単純だ。要は桜の意識をあちらの『桜』につなげるだけ。本来、理性を持った存在に意識を移すというのは簡単なことではないのだが、別世界とはいえ、同一人物。しかも向こうの『桜』も全面的に協力してくれることになっている。拒絶反応の類は心配あるまい。
まずは頭の中のイメージを固めていく。あれから何度か試してみたが、『意図した並行世界』につなげるためには、その世界の事物を明確に意識することが重要であるらしい。まずは、あのもう一人の『わたし』のイメージを心に焼き付ける。
イメージが固定できたところで、ボストンバッグの隠しポケットの中に入れておいた、宝石ナイフを取り出し、慎重に胸の前にささげ持つ。
「――――Anfang(セット)」
『さあ、桜』
「Es lt frei,(解放)verbinden(接続)!」
『みておいで、冬の終わりを』
そして、思いっきり、空間にナイフを突き立てた。
「来た!」
突然、何もない空間から突き出してきたナイフの切っ先を見て、士郎が叫んだ。
「OK、時間どおり! じゃあこっちもいくわよ!」
そして、瞳を閉じて精神を集中する。
「……サポートします」
何時の間にそばにきていたのか、ライダーがわたしの背中に両手を置いた。あてがわれたライダーの両掌から、巨大な魔力が流入してくるのを感じる。
「――――Anfang(セット)」
すう、ひと呼吸おく。
「Es lt frei,(解放)verbinden(接続)!」
突き出してきているナイフの刃と交差する形で、こちらも刃を突き入れる。
「よし、接続完了。ライダー、桜の額に手を当てて」
「わかりました」
背中から掌の片方が離れるのを感じる。
「凛、こちらはいつでも大丈夫です」
「わかった」
通信用の宝石の小鳥を向こうに投げ込み、準備ができた旨をあっちの『わたし』に伝えさせる。
「あとは向こうの術待ちだけど……いいわね、みんな。桜が目覚めたら、手はずどおりにお願いよ」
一堂、無言で頷く。
「それから、桜。不安だろうけど、当代随一っていうレベルの魔術師が三人がかりで取り組むんだから、大船に乗った気分でいなさい……心配しないでね」
「三人? ……姉さん、一人足りないわ。――これが、向こうの世界の『姉さん』や『わたし』のためになるのなら、わたしだって全力を尽くしたいの」
「……悪かった、そうよね」
ほんのりと胸が温かくなる思いがした。――この男の顔をみるまでは。
(士郎……士郎!)
このやりとりを、こともあろうにぽけーっとみていた士郎に、一蹴り入れてやる。
(な……なんだよ。いきなり信じられないことするなっ!)
(信じらんないのはあんたよ! 恋人の一大事でしょ! なんか一言くらいないの!?)
(わかってるさ。今の俺にできることなんて、これくらいだ)
言うと、士郎はすっと立ち上がって、桜の傍らに行った。
そして黙って、桜の手を取った。
――うわ、この男は……。なんだかんだいいつつ、心得てるんだから。
「わかったわかった。もういいわ」
なんだかどっと疲れてしまった。
「凛、きます」
ライダーに言われて我に返る。――確かに、そろそろみたい。
「OK。じゃあカウントとるよ………………3、2、1……」
ゼロと口に出すのと同時に、膨大な魔力が、刃を交えたむこうの宝石剣から伝わってきた。まずはその奔流の中から、『桜』の意識を感じ取って保護する。眠っている『桜』は意識レベルが落ちているはずだから、強い魔力にあまりさらすと、彼女を傷つけてしまう可能性があるのだ。そうして慎重にライダーに受け渡す。ライダーは桜とサーバントとしてのつながりがあるので、桜の意識の中にまで『手』を伸ばすことができるのだ。あとはライダーが、桜に受け渡してくれるだろう。
「ん……っ」
桜の眉が一瞬だけ歪む。……どうやら、上手く行ったらしい。そうして眠れる『桜』の意識の包みを、最後に桜自身がゆっくりと丁寧にほどいていく。
「……どう?」
しばらく反応がなくて気をもんだが、やがて桜は微笑みとともに人差し指と親指で、ちいさくマルを作って見せた。ほっ……一斉に安堵の吐息が漏れる。
さあ、ここからが本番だ。
『桜』にわたしたちの日常をみせてやってほしい、それが向こうの『わたし』の要望だった。今、あちらの世界の『桜』は、こっちの桜の中で、この光景を見ている。段取りとしては、まずはカードゲームでもしようという桜の提案から、このお芝居をはじめることになっているはずなのだが……その桜は、顔を伏せたまま一向に動かなくなってしまった。
「……桜?」
さすがに心配になって声をかけた士郎が、桜の顔をのぞきこんで、言葉を失った。
桜は、泣いていた。ぽたぽたと涙の雨垂れがレジャーシートを濡らす。
「ちょっ……桜、なんかあったんじゃ……」
拒絶反応でも出たかと、桜をサポートして術を維持しているライダーに目で問い掛けたが、彼女は首を横にふる。
「じゃあ一体……」
「姉さん」
桜は顔を伏せ、涙を流したまま、こう続けた。
「やっぱり、こんなお芝居じゃあ、駄目」
「え?」
まさか。
「――どうぞ」
桜は顔を上げ、そっとささやく。
「――わたしの大切な人たち。わたしの記憶。わたしの心。わたしのすべてを、今はあなたに」
それが呪文であるかのように呟くと、ゆっくりと瞳を閉じ、くたりとこちらに倒れこんできた。
「あ……ちょ……桜! ……ムチャするんだから……!」
止める間もなかった。どうやら桜は、主導権を完全に『桜』に渡してしまったらしい。
「全く……それは危ないからやめようって話し合って決めたじゃない……まあこうなったら仕方がない。ライダー。フォローお願いね」
無言で頷くライダー。
……ここからは本当に筋書きなんかなんにもない。もう生身のわたしたちでいくしかない。
「なあ、遠坂。桜は桜だよな。別に特別なことなんて何にもないんだよな」
士郎が、自分に言い聞かせるように言った。それは、わたしの気持ちでもあった。
「……ええ、そうよ。たとえ生きる世界は違っても、この子はわたしたちの桜よ」
いつものわたしたちでいこう。つたなくても不恰好でも、きっとわたしたちらしい方がいい。
――5――
ゆっくりと、桜が目を開く。
ほっと安心する。万に一つもないとはいえ、桜があっちに行ったまま帰ってこないのではないかという恐怖が、どうしても頭から離れなかったのだ。まずは、よかった。
「――ねえ、さん?」
「ええ。どうしたの桜? なんか不思議なことでもある?」
「……いえ。とても不思議な夢をみたので」
「そう。いい夢が見られた?」
「はい。……とっても」
その笑顔が本当に幸福そうだったから、わたしはそれだけで胸がいっぱいになってしまった。
「姉さん、ありがとう」
唐突に、桜はそんなことを言った。
「何が?」
「本当に素敵な夢を、ありがとう」
「……え? な、なんのこと?」
不意打ちだったので、思わず声が裏返ってしまった。……駄目だ。これじゃ子供も騙せやしない。
「……まさか姉さん、隠してるつもりだったの?」
桜が心底不思議そうに、可笑しそうに言う。……観念した。ここまできたらもう誤魔化せない。
「いや、あの、え? もしかしてバレバレ?」
「姉さん、わたしだって魔術師よ。あれだけの奇跡を前にして、気づかないなんてありえないわ」
「あちゃー……」
舞台裏まで覗かれたような気がしてきて、気恥ずかしくなってしまう。
「いくら夢でも、自分が夢にも思わないことを夢にみることなんてできないわ。――あれは、私には想像もつかない幸福だった。姉さんがいて、先輩がいて、ライダーまでいて、わたしがいる。それだけでもう、胸がいっぱい。ただみんな一緒にいられるってことが、本当にありえない幸福だった。
ねえ、姉さん。わたし、先輩に逢えて本当に嬉しかった。あの先輩は、わたしの世界の先輩じゃないって分かっていたけど、それでも、この『セカイ』のどこかで、先輩が元気でいてくれるってことが、本当に本当に、嬉しかったの……」
そう語る桜の瞳は、未だ夢見ているかのようだった。
桜と二人、櫻吹雪の中に立つ。
不思議だ。気の持ちようで、景色というのはこんなにも変わるものか。
濃密な花の香り。
そこかしこにただよう、いのちの季節の気配。
それは、はじまりの季節。満開の春だった。
となりに桜を感じながら、この季節を迎えられた喜びを、どう表現すればいいだろう。
『でも、まだ何も始まっていない。ようやく始まろうとしているだけ。すべては、ここからよ』
過去を取り戻せないことには変わりない。結局桜は、桜自身を一生許してはくれないだろう。
それでも。
どうにかして、このバカを幸せにしなくては。
せんぱい。 わたし、今でも覚えています。
決して戻れぬとわかっていながら、二人で交わしたあの約束を。
いつか冬が過ぎて。
新しい春になったら、二人で櫻を見に行こう――――
約束はこの胸に。往くべき道は、我が前に。
「姉さん、わたしね」
ささやかだけど、まずは一歩を。
「またお花をはじめようかと思うの」
遅い春を、迎えるために。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
こんにちは、文月そらです。
このお話は、久慈光樹さん、すなふさんのサークル「ひざうえ10せんち」さんの2004年夏コミ本「遠坂凛の金属バット文庫」の一作品として書かせていただいたものです。おかげさまでこの本も早い段階で完売し、しばらく経ちますので、ひざうえさんともお話した結果、今回webに上げさせていただくことになりました。
個人的には、自分が今まで書いた中で一番気に入っているお話でもあり、web公開できることになって嬉しいです。
挿絵は天野拓美さん。……いつもお世話になってますです。この絵、およびこのSSについては、天野さんのほうでもコメントを公開していただいていますので、是非ごらんになって下さい。ちなみにリンク先にはネタ絵もあります。
さて、いかがでしたでしょうか?
気に入っていただけると嬉しいのですが。
もし気が向かれましたら、下のフォームから感想を送っていただけると管理人狂喜いたします。
ちなみに、名前欄、メール欄空っぽでも送信できますので……。
では、もしご縁がありましたら、またお会いしましょう〜。
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