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2009年3月21日

[書籍]もうとらドラ最終巻出ちゃったけど、再読は継続する試み その5 もうとらドラ最終巻出ちゃったけど、再読は継続する試み その5

 さて。
 まだ十巻読んでません。とらドラ関連のサイトはどこにもいけません。
 おれ、この感想書き終えたら、十巻読むんだ……。
 では、はじめたいと思います。例によってネタバレ全開ですので、ご注意くださいね。

 
 
 
 


 今回は3巻読了まで。この巻は正直難しい。

 前巻ラストシーン、竜児と亜美の現場目撃からの大河の怒り継続中なわけだが、大河のこの激烈な反応っぷりは一体何だろう。怒りも言動も理不尽すぎて初読時はついていけなかった。その後の亜美との竜児と過ごす夏休みを賭けての水泳対決まで含め、この巻のテーマは、大河と竜児の互いの気持ちということなんだろう。

 多分、大河のあの執拗なまでの怒りは、自分と竜児との関係を、簡単な分かりやすい言葉で決め付けられるのが嫌だったのだろうと思う。確かに一緒に生活しているし、一緒にご飯を食べている。弁当も作ってもらっているし、家事全般もやってもらっている。それが常の友達の、特に男友達のあり方とはかけ離れているのはわかる。でも、そんな関係になんと名前をつければいいのか。
 好意を持っている、好きだと型にはめてしまうのは簡単だ。でも大河が竜児に対して持っている感情は、北村に対して抱いていたそれとは違いすぎる。ふわふわと、わきたつものがない。憧憬も不安も決定的に欠けている。
 代わりにあるのは、安心だ。どんなにみっともない顔を見せても、どんなにドジな姿を見せてもいい。奴は見捨てない。かえって喜んで世話をやいてくる。だから気負わず、自然体でいられる。大河にとっての竜児の前というのはそういう場所なんだと思う。
 では、そういう関係は何なのか。家族といってしまうには、大河にとって家族という存在が遠すぎる。じゃあなんだ。なんでもない。わからない。わからないけれど、とにかく居心地のいい場所。そんなあいまいなごまかし。
 一方で竜児の側もごまかしている。大河という存在は何なのか。それは本当に家族愛なのか。竜児はあたしのもんだと言われて嬉しかったのは何故か。否定されて腹が立ったのは何故なのか。答えから目をそむけたまま、思う存分世話を焼かせてもらえる居心地のよさにやっぱり甘えている。
 二人とも、特に大河は答えを出せない。出してしまえば確実に何かが変わる。少なくとも、現在二人の関係を成立させている大前提『互いの恋を応援する』が崩壊する。そうしたら大河はまた独りになってしまうかもしれない。竜児はまた、家以外の居場所を失ってしまうかもしれない。

 不安も、胸の高鳴りもない。ただ、一緒にいて安心する。空気のように必要とする。かけがえがないと執着する。そんな存在。
 それは確かに恋ではないだろう。

 でも、それよりむしろ一歩進んで、愛情ではあるんじゃないかい? 高校生からすると想像から遠すぎるかもしれないけれど、例えば夫婦のような。
 そう大河に言ったら……まあ、確実に殴られると思う。やっぱり。


 ところでやっちゃんが、大河は本当に嫌いな人とは同じ皿からご飯を食べないといっていたけど、大河はこのときすでに亜美と一緒にご飯食べられると思う。2度溺れた大河を2度とも本気で心配する亜美の姿を見ていて、なんとなくそう思った。
 そして、ラストで亜美の別荘の計画に大河が割り込んできたとき、確信した。
 多分、亜美が本当に大河の参加を受け入れた決め手は、大河の『いいでしょ? 私にも見せて。私も一緒に行きたいもん』の台詞だったと思うから。
 大河って、自分に向けられる感情に敏感だから、亜美のこの好意は、伝わっていると思うのだ。

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投稿者 文月そら : 01:20 | コメント (0) | トラックバック